からっけつでも飲み行っちゃう、貧乏でもオシャレは欠かせない。文士の生き方に万歳!
文士村とあるけど、残念ながら住居は残ってはいない。この辺りにあったと示す案内板があるだけ。でもこの居住跡案内板で知っている作家、知らなかった作家のヒトトナリを知り、こんな所に住んであの作品やこんな交流があったのかと思いを巡らしながら散策するのが楽しい。
大森駅からジャーマン通りを環七の方向へ歩く。ジャーマン通りとは以前この辺りにドイツ人学校があったから。その頃友人が山王に住んでいたので遊びに行くと、ドイツ人の学生が通りを歩いているのをよく見かけたが、みーんなイケメンで素敵だった思い出がある。

それはさておき、環七まで歩いて左に曲がり、一つ入った通りに、榊山潤と藤浦洸の住居跡案内板がある。
榊山潤は、『馬込文士村』を執筆したとあり、居住跡案内板にはその一部が書いてあった。この本読んでみたい。
大田区山王4-11 水路敷

無銭飲食未遂事件
ある日のこと、「うなぎをご馳走してやる」と誘いを受けた秋田と榊山は店で尾崎を待っていた。ところが卓のビールが四本になっても当人は姿を見せない。からっけつの二人は不安になってきた。出先に電話を入れてみればとっくに帰ったとのこと。
榊山が五本目のビールをたのみ、蒲焼きに手をつけようとすると、秋田は声を落とし、しかし鋭い調子で「よせ。」と言った。
秋田「それに手をつけるな。それを食うと無銭飲食になる。ビールだけなら無銭飲で済むだろう。罪が軽くなる。」
無銭飲とはおもしろい。榊山は笑いかけたが、秋田の顔を見ると笑いがこわばった。社に戻って金を取ってくるといっても秋田はきかない。
秋田「こうなれば一蓮托生、ブタ箱も一緒だ。」
榊山「そんなばかな……。」
看板三十分前、客もいなくなり、二人は途方に暮れていた。「首の座になおる時がきたようだな。」秋田が自嘲のように言ったとたん、尾崎が姿を現した。九時三十五分であった……。
参考文献 榊山潤【馬込文士村】
となりに藤浦洸。
淡谷のり子の『別れのブルース』の作詞で有名になった。

詩人の藤浦洸は、物を見る眼が贅沢でした。高級犬のテリヤを飼っていたり、八ミリカメラを持っていたり、ピカピカのイタリア製の靴を履いたりしていたのですから。彼も貧乏文士の一人だったのですが……。
さて藤浦にはもう一つ、実に派手な貧乏ゆすりをする癖がありました。ところがこれが空気感染する伝染病だったからたまりません。他の文士までつられて貧乏ゆすりを始めたので、馬込は一時『恐慌状態』になりました。
『谷中でテリアを飼っていた』にも笑った。
先生方は面白い!クレジットカードもPayPayもない、携帯で連絡、なんてない時代、風情ある。
正直このおふたりは初めて知った。少し歩くとやっと知っている作家が。
室生犀星